ちあきさんのお話

勉強は時に、
私に新たな景色を
見せてくれる。

 カナディアンロッキーを間近に臨むカルガリーの街で、ちあきさんは夫とともに二度目の冬を越した。時にマイナス二〇度になることもあるけれど、よく晴れた日、キラキラと輝く白い山脈を眺めながら、彼女はこの先の人生をぼんやり思い描いたりする。目の前に広がる空の青ほどクリアではないけれど、カナダに来た当初よりも自分の歩む先がクリアになってきた気がする。

 彼女は、思い立ったらすぐ行動することがある。結婚し、カルガリーへ移住するという決断も速かった。父の仕事の都合で、東京とミラノを行き来する子ども時代を過ごしたことも影響しているのかもしれない。学生時代には、ふと思い立って一人旅に出ることも多々あった。さまざまな国を旅して、良い面も嫌な面も含め、いろんな文化や価値観に自然と触れてきた。

 一方で彼女は、ウジウジと悩んでしまったり、何かを前に臆してしまう面があることも自覚している。就職活動をしている時にもそれを感じた。「これがやりたい」という明確な意志を持つことができず、何となく好きという理由で旅行業界やコスメ業界などにエントリーしつつも、「本当にそれでいいのかな?」と疑問を感じ、悶々とする自分がいた。
 総合商社へ進む道を決めた時にも、逡巡はあった。福利厚生がしっかりしていて、結婚や出産など人生のステージが変わっても仕事を長く続けられそう、というところに惹かれた。でも、「総合職は無理かな」と気後れしてしまう自分もいた。タフな交渉とか巨額の案件をバリバリとこなし、幾多の転勤や異動も物ともしないイメージ。結婚や子育てといった将来思い描く人生の変化と、総合職にまつわる仕事上の変化とを両立させることが、自分にできるとは思えなかった。安定して長く続けられる仕事を望んでいた彼女は、事務職を選ぶことにした。

 入社して、船舶関係の部署に配属された。これまでまったく馴染みのなかった世界。都心のオフィスのデスクから、一度も実物を見たことのない遠い異国の洋上に浮かぶ船舶の管理業務にいそしむ日々。

 二年目に先輩が異動して、さまざまな業務が一気に自分に舞い込むことになり、周囲の助けを得ながらどうにか乗り切った経験もした。徐々に専門知識や実務経験を積み重ね、「分からないことがあったら、ちあきさんに訊けばいい」と周囲に頼られる存在になった。誰かに必要とされ、誰かの助けになっていることに大きなやりがいを感じた。でも心のどこかで、「私、このままでいいのかな?」という不安とも焦燥ともつかぬ思いが浮かぶこともあった。今の会社、今の部署では通用しているけれど、もし違う環境に身を置いたら、私には何ができるんだろう? 私は本当の意味でどれほど成長できているんだろう?

 形のある成果を残せる仕事がしてみたい。そんな願望に駆られて転職を試みたこともある。でも、うまく行かなかった。自分が本当にやりたいことが明確ではないことを、彼女は痛感した。

 転職はうまく行かなくて良かった、と彼女は今にして思う。社内で出会った人―やがて夫となる人―がカルガリーへ転勤となり、遠距離交際を経て、半年間ほどで結婚、退社、海外移住と一気に大きな決断をした。思い立ったらすぐに行動に移す、という自分の強みを存分に発揮した瞬間だったのかもしれない。
 英会話力は心もとなかったけれど、向こうに行って学べばいい、と彼女は考えた。会社を辞めた私には時間がある。英語力を鍛えるいい機会だ。語学学校に通ったり、カルガリー大学の夏期講座を受講したりした。そこでは課題を与えられ、プレゼンしたり、グループワークもした。自分の意見をしっかり持ち、主張したり議論する経験は、彼女にとって大きな刺激となった。

 主婦兼学生として学んだり、街を楽しんだり、車で一時間ほどで行けるカナディアンロッキーの大自然の中で自分と向き合ったり。そんな日々を過ごしながら、彼女の中で徐々に自分が本当にやりたいことが明確に%E
 初日に愕然とした課題も、一カ月後にどうにかプレゼンを乗り切り、彼女は手応えをつかみ始めた。勉強のコツもつかみ始めた。必要な知識を完璧に習得してから課題に取り組まなくてもいいんだ。知識は生半可だとしても、まずは課題に手をつけ始める。間違いを恐れない。つまずいたら調べる。週一回のメンターとの面談で、途中段階でもいいからとにかくチェックを受け、すぐに軌道修正する。そして、次週の面談までにブラッシュアップする。

 形のある成果を残せる仕事がしたい、と望んでいた彼女にとって、数度のプレゼンをパスした実績は着実に自信になっている。デジタルマーケターへの階段を着々と上っている、という感触を得ている。

 異国の地に初めて立った日、彼女は妻となって大切な人と一緒に暮らせる大きな幸福を感じるとともに、いったん社会から離れてしまったような小さな不安も感じた。家庭も大切にしたいし、いずれは仕事もしたい。そのためには、自分の働き方の可能性を拡張できるスキルが必要だ。この先、日本に戻っても、夫の転勤でどこの国に住むことになっても、さまざまな世界で求められるスキル。

 デジタルマーケターの勉強は、彼女の中の小さな不安を、小さな自信へと変えた。まだまだ課題に苦戦することはあるけれど、彼女の中でやるべきことはクリアだ。そして、思い描く将来の姿もクリアになりつつある。

 今、目の前に広がるカナディアンロッキーの景色は、初めて見た時より、彼女には一層輝いて見える。気のせいかもしれないし、心もようの変化のせいかもしれない。いずれにせよ、将来デジタルマーケターとして世界のどこかで忙しくも充実した日々を送るであろう彼女は、ふとした刹那にこの景色を思い出し、きっと自分を奮い立たせるはず。